Posted by あしたさぬき.JP at

 

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2013年11月24日

VESPAレストア

先月、ばらばらにしてしまったVESPA。

ショップに見積もりを頼んだところ、板金塗装だけで30~40万円というお返事。

新車のPX150が買えちゃいます。

無理です。

ということで、自力で治すことに決定しました。

まずは、錆で朽ち果てた鉄板をハンドグラインダーでぶった切ります。

で、この後登場するのが、ヤフオクで安く手に入れた100v半自動溶接機。



“是的、我是外行人。”

ここでワンポイント中国語講座、「外行」とはプロを表す「内行」の反義語、つまり素人です。
ということで、上のひとことは「そうです、私は素人です。」となるのですね。

そうなんです。私は溶接機を触ったこともない「外行」なのです。

誰ですか?挫折することが見え見えだとか思ったのは。

そうはなりません。

実は、うちの父親は昔鉄工所を経営していた「内行」なんです。

実家に修行に行ってきます。

ところが、

「こんなもん、つこたことないで」

とのこと、うーん、大丈夫かな?




フロアーを溶接していた耳の部分は完全にお亡くなりだったので、鉄板をたたいて自作して溶接。

簡単にはいきません。

薄板は穴が開きやすいもの。

うちの親父は失敗しない限り何にも教えてくれない人なので、当然穴が開いちゃいます。

穴が開いたら、修正はしてくれますが、どうやるかは教えてくれません。



試行錯誤しながらなんとか成功した所で聞いてみます。

「こんなふうにして、あんなふうにしたけど、これでええんかな?」

「そうやな」

万事こんな感じで、大切なVESPAを練習台にしながら、修行は進んでいきます。

うちのP200Eは、フロアが底板と足を載せるステップの二枚重ね、プラスサイドカー取り付け補強用にもう一枚が底板に張り付いています。

底板は、原型をとどめていなかったので、宇賀神商会に注文。

その他は、金切ばさみでくり貫いて、プラハンでがんがん叩いて自作しました。



で、だいたい完成。



一言で「完成」と言ってしまいましたが、ここまでひと月かかってます。

この溶接機、20Aの家庭用コンセントからとったんじゃ使い物になりません。

配線工事をすればいいんですが、面倒くさい。

で、わざわざ琴南の山の親父の別荘の30Aのコンセントを使いに何度も往復してます。

部分的に溶接しては、次の溶接パーツを作り、フレーム内側はフロア溶接後は触れなくなるので、先に防錆剤を塗り、溶接で溶けては部分的に塗り直すという作業を繰り返しています。

そんな人間の愚かな行為を見ながら、おサルの群れが畑を横断していくのでした。








  


2013年11月17日

屋島北嶺

屋島北嶺を北端の長崎の鼻側の登山道より登ってきました。



登り始めてすぐに、石切り場の跡と言われている洞窟が見えてきます。

きれいにノミ跡が残るこの洞窟ですが、隣の庵治では山ごと崩す勢いで露天掘りをしているのに、ここは洞窟状に坑道を穿っています。



現在、崩落の危険があるため立ち入り禁止ですが、前回登った10年前は奥まで入れました。

最長120mあるこの洞窟、本当に単なる石切り場なのでしょうか?



長崎の鼻には江戸末期の砲台跡が残っているので、その弾薬庫に利用したのか?それとも金か何かを採掘しようと掘ったのか?

資料がないのでよくわかりません。


さらに登っていくと、岩場に出ます。

独特の形状の岩ですが、ここが海抜200m付近。

南嶺から見た北嶺山頂より少し下の岩が200mライン

前回妄想したように、海進期この高さの位置が波打ち際であった証拠である。

屋島城の城門と言われる遺構もこの高さである。

北嶺南部の斜面にある石切り場跡と言われる洞窟もこの高さである。

等高線の密なこんな急斜面で切り出した石をどうやって麓へおろしたのか、もしくは山頂へ上げたのか?

無理です。これもここが波打ち際であった証拠である。

妄想はそこまでにして、登山を続けましょう。


と思ったら、間もなく遊鶴亭に到着。

ここからは山頂の平らな遊歩道が北嶺を囲むように東西両側に延び、北嶺南端で合流しています。

舗装された遊歩道を歩くのは面白くないと、よく見ると真ん中に尾根筋の土の道が。



迷わずここを進みます。

しばらく進むと千間堂跡と言われる礎石跡に着きます。ここが鑑真和尚が建てたといわれる最初の屋島寺であったらしい。

どの資料を見ても「たぶん」としか書いていませんが・・・。

ほどなくすると、北嶺の南端の芝生の広場に出ます。

ここからまた、中央部に尾根伝いの道があるので、そちらを進みます。

この道、なんと石畳がしいてあります。草や土の中に埋もれている所も多いのですが、ずっと続いています。



列石です。




しばらく行くと、本当に尾根の先端を歩く道に変わり、あきらかに人工物の立石、列石、階段、江戸時代以降に彫られたであろう漢数字。



途中、割れてしまった鏡岩もありました。

真東に向いています。


尾根筋を迂回するように作られた遊歩道は、つい最近のもので、本来はこちらがメインの道であったようです。

この漢数字、確認できたものは二つですが、北側から「四七」、「五三」なので、道標かなにかでは?

ところどころ石が割れて崩れてきているので、場所によっては迂回しなければいけませんが、基本的にはこの道は生きています。

県の方でも、この辺りは「階段状遺構」と指定されているようですが、特別な保護はされていないようです。


北嶺と南嶺の中間点にある254mの小峰、ここに列石、立石、階段遺構があります。

ここを抜けるとすぐに南嶺の談古嶺に到着します。

以上、北嶺は今は何も無く寂れているものの、古代より江戸時代までは、人が頻繁に入っていたものとみられます。

再度実地調査をしてみて、海抜200m付近が巨石文明の時代の海岸線であったことを確認できた有意義な一日でした。

ここで日が暮れかけたので、今日はおしまい。元来た道を、たった40分で急ぎ足で逃げ帰りました。



  


2013年10月27日

屋島城

ふと思った。

屋島城の城門はどこにあるのか?

答えは標高300m近くの断崖絶壁の上。ちょうどその標高の別の場所では岩肌が剥き出している。





では、岡山の鬼ノ城は?

こちらはほぼ300mより上のラインに城壁や城門がある。

同じ高さと言ってもいいぐらいの誤差ではなかろうか?


では、屋島、鬼ノ城ともに麓から甲冑を身に着けて城門へ入れるのか?

ともに、不可能なはずである。

どちらも城門と言われている所から足を一歩踏み出せば、清水の舞台よりも深い所に真っ逆さまになることは確実である。

門の前方には空しかないのだから。

鬼ノ城


屋島は7世紀の朝鮮式山城であるといわれているが、城門等の遺構から当時の須恵器の欠片がみつかったから、これが資料にある屋島城の遺構であると言っているだけで、他に証拠は存在しない。

鬼ノ城にいたっては日本書紀等の資料にも記載がなく、謎の存在である。

屋島城は、明らかに鬼ノ城の劣化版であるが、資料にそのあたりにありましたよと書かれているから認定されているのである。

朝廷がわざわざ百済人に作らせた城が、名も無い鬼ノ城よりはるかに劣るとはこれいかに?

私の妄想では、屋島城も鬼ノ城も同時代の要塞である。

吉備の海洋国家の本拠地と出城である。


縄文海進の時代は今より海が数メートル高かったといわれるが、もっと昔、ノアの方舟のような洪水が世界中に起こっていたとすれば、数百メートル海面が上がっていても不思議ではないはず。

鬼ノ城城門、誰が通る?

面白い地図を見つけたので、ここに紹介する。

「FLOOD Maps海面上昇シミュレーション」というグーグルマップの上で海面位置を操作できるページである。

試しに最高高度の60メートルで見てみると、鬼ノ城は海岸線にあり、屋島もかなり小さな島になる。

このページでは60mが限界だが、頭の中で270か280mくらいまで水嵩を上げると、

あーら、不思議鬼ノ城と屋島の城壁が海岸の護岸壁となり、城門は船着き場となるのである。

ちなみにこの海面位置で金比羅さんを見ると、今の本宮が水面よりちょっと下になってしまうが、北側の葵の滝や岩肌が剥き出しになっているラインにあたる。



屋島城の復元創造イラストでも、城門はスロープになっている、船を陸揚げして風から守るドックだったのでは?

結論、鬼ノ城と屋島城は、超古代吉備海洋国家の遺跡である。

その他、私が今まで調べてきた山上の巨石遺跡は、当時の岬の灯台である。

と、妄想している。  


2013年10月17日

Vespaをひっくり返してみた

昨日に引き続き、午前中はベスパの分解。

今日はフロントフォークを抜きます。

ただ、その前にやることが多いのがベスパ。




先ずは、ハンドルの配線を全部引っこ抜きます。



レッグシールド前面のコネクターも全部外し、メーターケーブル、アクセルワイヤー、ブレーキ、クラッチ等すべてのケーブルをハンドルから外すと、ようやくハンドル自体を取り外せます。これらがフォークコラムの周りのフレーム隙間やコラム自体にぎっしり詰まっているので、どこに戻すべきか写真が無いとよくわかりません。



タイヤを前もって外しておいて、これでようやくボディからフォークを取り外せます。ちなみにこのロックリング回しは自転車用のモノ。サイズがぴったりです。



フリーになった車体は、持ち上げてひっくり返せますが、そこは鉄板そこそこ重い。

とりあえず横倒しにして、ブレーキペダルを外すと・・・。

ナットが一本足りません。

腐食して、フロアの一部とともに脱落した模様です。



フロア全体はこの通り、これって直るのでしょうか?



上から見ても、溶接の耳に穴が開いています。



正面のレッグシールド中央にも穴が、これ全オーナーが修理した際、大穴があいた部分に鉄板を張り付けていたみたいです。接着剤で。

いままで、こんなのに乗ってたのかと愕然。

ここからは、プロにお願いします。  


2013年10月16日

VESPAのエンジン泣く泣くおろす



久々にバイクネタです。

クラッチワイヤーの遊び調整金具が折れていたのを交換するだけのちょっとした整備のつもりが、エンジンおろすはめになりました。




まず、電気配線を外します。あっ、ここは外さなくていい。ほっといて次に進みます。




エンジンに行ってる配線はキャブレターの後ろ、さっきのコネクターの上、こっちを外すだけ。

いつもはここで写真を撮らずあとあとになって資料を探しまくるという無駄があったので、今回は逐一写真に残すと決意したのです。ただ、この写真は以前補修の際にコードの色、とり回しを変えているので他車の参考にはなりません。




お次はシフトケーブルを外す。




リアブレーキのワイヤーは取り付け時、上から通して、下からはねあげてフックに止める、忘れそうです。




キャブレターカバーを開け、エアクリーナーを外し、チョーク、アクセルのワイヤーを外す。




燃料パイプは14ミリの肩空きレンチでこじるととれやすい。




エンジン取り付けボルトを抜き、ショックを外せば、すこっと下ります。




ついでにサイドカーも外します。

こいつは6本のボルトでボディを上下で挟んでるだけ、かなり車体に負担かかっているはず。

下から見ると恐ろしい光景が。




エンジン取付マウント部もさびさびです。





下したエンジンは、漏れたオイルでどろどろ。



本来の目的は、このクラッチワイヤーの金具にささっていた遊び調整ボルトが折れていてそれを抜くことだったのですが、車体にのせたままでは電動ドリルが入らず、やむを得エンジン自体を下すことになった次第です。

もともとはここはねじが切ってあったのですが、折れたボルトがなかで固着していたため、ドリルでもんでねじ穴自体を広げました。

そもそも、普通のバイクはこんな所フックになっているだけなので、ねじは切ってなくても大丈夫ですから。

本来の目的のためなら、ここでエンジンを載せ直してもいいのですが、あの錆を見た後では、もう乗れません。

本格的な板金をします。

授業があるので、今日はここまで。
  
タグ :P200E


2013年10月11日

三豊市貴峰山

清々しい秋晴れの中、散歩のつもりで鳥坂をリニューアルしたMTBで越え、三豊市三野町の貴峰山(とみねやま)223mに向かった。

出発時、すでに外気は31度に達しており、心地よいお散歩の予定は、自転車にまたがった時には打ち砕かれ、鳥坂を下るころには大粒の汗が眉毛をつたい目に流れ込み脱水症状寸前。

夏場ならこの程度の気温にへこたれる私ではないが、台風の涼しさに慣れてしまった体には非常に厳しい。

仁尾への県道を浜街道方面へ折れ、ため池の上手を西に曲る。

石碑がある民家と民家の間の細道がここの登山口である。

少し進むと巨大な石がお出迎え。



平地に近い場所にこんな大きな石はめずらしい。

この先は登山道なので車ではいけない。自転車をおしたり、担いだりで丸太段の急坂を進む。

自転車など置いて行けばいいんだが、後のお楽しみのためしんどいのを我慢してふらふらになりつつ登る。

丸太段は、山の中腹を一周するミニ88箇所の道に突き当たりいったん終わる。



ここからは、普通の登山道でつづら折れの道が頂上へと続く。

六、七合目に岩壁が現れるが、無理して登るほどの体力も残っていないので、おとなしく迂回して一般ルートを歩く。



行く手をふさぐ蜘蛛の巣と格闘しつつ、ほんの10数分で山頂到着。



明らかに人工的に割られた階段ピラミッド状の頂上巨石。



古代の祭壇にしかみえない。



気分は古代司祭。

周りの樹木が無ければ、さぞかし好い景色であろう。

この貴峰山、これで二回目なのだが、毎回登るたびに頂上巨石に張り付くように生えているこの桜の木が花を咲かせて迎えてくれる。



この日は10月9日、前回は1月だったかと思う。

讃岐七不思議の一つに認定。

頂上脇に、樹木をかってくれている場所があり、ここからは隣の山、奥に荘内半島、北は津島さんまで一望できる。



  


2013年09月29日

粟島へ出航

急に気温が下がり始めたので、そろそろ水遊びも潮時かと思い、今年たぶん最後の海に出た。

昨日の金曜日である。

荘内半島から見る粟島、歩けば10分で着きそうなくらい近い。地図で見ても最短で500メートル程度しかないように見える。

不安な点は、潮流がわからないのと、激走しまくっている漁船をどう避けるかぐらいのものである。

実のところ、横波に弱いうちのカヤックにとって漁船の起こす波が一番の大敵。

毎年、渡ろうとおもいつつ躊躇してきたが、ようやく決心して渡ることにした。





できるだけ近い所から出発しようと花之御膳稲荷神社の浜から出ることにした。

今回、単独行なので一人で分割式のカヤックを運んで組み立て、セイリング用のアウトリガーを組み付け、帆を取り付けてとやっていると、それだけで30分以上かかってしまった。おまけにしんどい。




遠くの台風の影響で海はそこそこ荒れていて、1メートル近い波。

それくらいでは、アウトリガー付きの船体びくともしません。

漕ぎ出して20分、浜はすぐそこ。

近すぎるし、町まで歩くのも大変そうなので、港の近くに船を寄せようと思い、そのままやり過ごす。





しばらくは、防波堤のある岸壁なので、岸には近づけない。



さらに20分、出発から40分ほどで海員学校が見えてきました。




さあ、そろそろどこかに上陸しようかなと周りを見渡すが、ずーっとどこまでも見える範囲にはコンクリートの護岸。

おまけに漁船が猛スピードでやって来ては急ターンして網を沈めていきます。はねられることはないにしても、その度に木の葉のような我がカヤックは激しい上下運動と左右のゆさぶりに見舞われます。

迷惑かけてもいけないし、沈するのもいや、ましてや着岸出来る浜はどうやら遠くに見える港のまだその先しかなさそうである。


しんどい。帰ろう。

昼飯食うの忘れてたし。

腰も痛くなってきた。

どんどん弱気になってきます。

とりあえず上陸だけはしたい。

最初に見た浜に船をつけて一休みしよう。

とUターンにかかる。

あれ?回りません。

左に回頭しているはずが右に引っ張られていく。

一度停止して方向転換の後、前へ進もうとするとやっぱり左手、北東へ流されていきます。

どうやら巨大なアウトリガーをつけた分、鈍重になってしまったようで、潮流に逆らえなくなったようです。

往きは流れにのっていたのかもしれない。

もしくは岸に近づきすぎたのかもしれない。

一度沖に戻って、再度浜を目指すも自由には動いてくれません。

四苦八苦しながらそれでもなんとか浜に着いた。




ここから港まで歩いて行こうかと空を見る。

近頃すっかり日が落ちるのも早くなってきていて、3時の段階でもう日が傾いて見えます。

ここまで1時間強かかっている。

帰りはもっとかかるかもしれない。

出発した神社は浜と言っても猫の額ほど。

満潮時には着岸地点が無くなるかもしれない。

西側の浜につけるにはさらに時間がかかる。

そこから車を取りに行ったら、積み込む頃は日が暮れている。

どんどん弱気になっていきます。

これ以上ここにとどまるわけにはいかない。

今すぐ出航だ。

休憩10分で逃げるように乗艇。




帰着は15時50分。

40分で帰ってきてしまいました。



猫の額ほどの浜も残っていて、安心するも、ここからまた分解、積み込みを一人でやっていると30分かかり、帰宅は5時過ぎ。

今日もまだ全身筋肉痛で翻訳やっています。

今度は、波の穏やかな日にアウトリガー無しで行かねば。

あっ、そうそう、帆は船体の割に小さすぎたのか、ほぼ役に立ちませんでした。  


2013年08月14日

旧暦の七夕

昨日8月13日は、旧暦の七夕。

新暦の七夕は、梅雨空の下、星なんか見えない場合がほとんど。

やっぱり節句はちゃんと旧暦で過ごさねばならない。

この数日はペルセウス流星群の残りがまだ見られるということで、星を見に行ってきた。



まんのう町(旧琴南町)と美馬市の境にある竜王山で車をオープンにして寝転がってみた。

二時間足らずの間に、天の川を20個ぐらいの流星が駆け抜け、30個以上のお願いをしたので、一つくらいは叶うであろう。




残念ながら、流星を写真におさめることはできなかったが、天の川はなんとか写っているようです。  


2013年08月13日

高知県本山町奥白髪林道

この暑いさなかに高知まで遠征。

標高1000メートル付近の林道という言葉に騙されて、早明浦ダムまでやってきてしまった。

普段は涼しいイメージのこの辺りも今年はうだるような暑さ。

ダムから林道までは、川沿いの県道を北上するのだが、渓谷に入っても意識が遠のくほどの暑さ。

車なのに熱中症で反吐が出そうです。(漢字で書くと「へど」のイメージが変わるような気が)


林道起点の広場に車を停めて、MTBで上がっていきます。



暑さのせいか、この道の傾斜がきつすぎるのか、心拍数は一気に上がり、呼吸も増加し、大量の汗がまぶたをつたい目にしみます。

頭痛、吐き気、倦怠感いづれも自転車走行中には体験したことのないレベルに上がり、死にそうです。

水浴びしないと死んでしまう、恐怖感の中、必死にだらだらと登っていきます。



基本的にこの道はガレ気味で、轍の深くなったところには、ご丁寧に砂利を敷き詰めてくれています。タイヤがとられて埋まるほど盛ってくれています。こいつがより体力を消耗させてくれます。



林道は渓流に沿ってい進んでいるものの、谷底までは10mの絶壁、水音が聞こえても下りられません。

林道中間点を越えてようやく降りられそうなところを発見。

頭から流れに突っ込んで冷却。

死なずにすみました。




林道に戻ってからは、今度はアブとの戦い。

急な傾斜のせいでスピードが出ないため、数十匹のアブにまとわりつかれます。

短髪にしたせいで、頭皮をかまれて悲鳴。

敏感な首をつつかれて苦悶。

背中をTシャツ越しに刺されて、裏拳で叩き潰すと血まみれに。

もう帰りたいです。

さっきの水浴びで濡らしておいたタオルを、時代劇の手ぬぐいパンチよろしく振り回してまとめて退治すると、真っ赤な鮮血で悲惨な状況。

高温、体力の消耗、吸血、生き地獄のような登り。


アブとの格闘で余計な体力を消耗して、林道終点に着いた時には、気力も尽き果てました。





起点よりここまで、2時間20分。


本当は、ここから三方向にそれぞれ別の林道が始まっているのだが、もうこれ以上行く気力も体力もありません。

帰ります。



登りの時にはあまり気にならなかったが、雨水を谷に流すためところどころ路面が盛り上げられているため、減速せずに突っ込むと大ジャンプ。

リアサスが底付き寸前まで沈み、ブレーキアウターが留め具から飛び出してリアタイヤロック。

危険です。



コーナリング中に深い砂利にタイヤをとられ、砂利が敷いていないところはとがった石が露出していて、遠心力でコーナー外側へ流れ気味のタイヤを上に弾いてくれます。

この三点以外は、全体的に走りやすく、そこそこスピードも出せますが、楽しさの点では剣山スーパー林道の方が格段上。

横滑りしやすい路面状況+上下に飛び跳ねる路面のため、体重移動と腕力でねじ伏せ続けるので、帰宅後は筋肉痛と関節痛で肩甲骨に手が届きません。

下りは、40分程度でゆっくりと、ただ、下りで息切れするほどハードだったのは初めてかも。

途中、この林道に懐かしのツーストロークRZ-Rで入って来ている人に遭遇。同情しました。




より大きな地図で 林道 を表示  


2013年08月03日

徳島の山にアレ出没!!

徳島は三加茂にやってまいりました。

目的地は、風呂塔山。



キャンプ場から山頂近くまで、自転車で行ける道があるので、ちょっとお散歩。

下界は35度を超えても、ここは1400m程度、30年前の夏休みぐらいの暑さである。(30度いかないくらいという意味)

道しるべには山頂まで徒歩20分。森林浴をしながらの楽々お散歩コースを自転車を押しながら歩く。

登山道のほとんどに丸太の段が設置されているので、歩くしかありません。

MTBはただのお荷物になり、このショートコースがえらく長く感じてきます。

山頂は、周囲に樹が生い茂っていて展望は無い。



ただ、登山道は山頂から2方向に延びていて、ここから三渕まで降りる道と、噂では落合峠までつながっているという道らしい。

真夏の低山は、虫と蛇がうようよしていて危険に満ち溢れているうえ、うっそうと茂った草木で噂の道はほぼ獣道になっていた。

丸太の段が見えているので、登山道には間違いなさそうだが、イノシシか鹿ぐらいしか通ってなさそうな荒れ具合である。

ふと、周りを見渡すと、木々の樹皮が何者かによってかじられている。

前回のスーパー林道でも小鹿に遭遇したし、剣山山頂付近でも2,3頭の鹿が跳ねているのを見たことがある。

一宇の山ではカモシカの糞も転がっていたりで、どうやら最近の四国の山は鹿の楽園と化してきているらしい。

しかし、雑な食い方をする鹿である。樹皮どころか幹自体に歯形がつくほど噛みついている。




下りは、途中から、広場と書かれた道しるべの方へ向かう。すぐにフラットな轍跡のある広い道に出た。

本来の目的であった車道へたどり着いたようである。

大きなあずまやが建っており、この付近の樹木も皮が食われていて、頂上と同じように何本もの傷がついている。

鹿はなわばりをもっていて、そのテリトリー内で行動するというから、ここにしばらく隠れていれば、姿を撮影できるかもしれない。

自転車で走るときは、まともなカメラを持っていないので、それはあきらめて、さあ、ダウンヒルだ。

快調に進んでいきます。



がれた所もあるものの基本的にフラットで走りやすい、ただ、いかんせん距離が短い。

あっという間にもとのキャンプ場に着いてしまった。

物足りない距離ではあったものの、帰りの時間を考えるとちょうどいい時間だったので、そのままもと来た林道を車で引き返す。

来るときには気づかなかったが、林道の入り口に何か立て看板がかけてある。

!!!

「クマ出没注意」


ご丁寧にツキノワグマの写真入りで、しっかり警告してくれていたのです。

どうりで樹皮をかじったところに五本爪の傷跡がいっぱいあったはず。

あのまま、鹿が来ると信じて待っていたら、今頃は、同じ爪痕がこの身に刻まれていたかもしれない。

恐るべし、徳島の山。

絶滅したはずの熊が復活しているとは。  


2013年07月17日

高山航空公園の大岩

高山航空公園といえば、自衛隊機やぼろいヘリを並べてたり、子供の遊具、はては航空神社なるものが鎮座する山上の公園である。

朝方降った雨のせいで、高温かつ高湿度の中、ふらふらと歩いていると、案内板に大岩なるものを発見。

空港付近を一望できる山に大岩、これは匂ってきます。

古代通信施設の匂いが。


熱中症になりそうな予感がしようが、マムシが出そうであろうが、ここで見ておかなくては、巨石マニアの名がすたる。

セスナの横の遊歩道を降りていきます。

降り始めてすぐに説明板。



「川女郎」という魔物がおって、退治しようとした猟師がたたりにあったようなことを書いてある。

奥を見ると、岩と岩の隙間に小さな祠、なぜかすぐ横に昔の醤油壺が置いてある。



下へ回ると、祠のある大岩はもう一つの巨石の上に置かれていて、



そのすぐ下には明らかに人工的に積んだ四角い石がある。




遊歩道のすぐ下にも同様の巨石が転がっている、もともとの構造物が崩れたようである。

これらの石以外には、何も見当たらず、この山自体は花崗土でできているようで、大岩は明らかに異質な石である。

方角的には、北向きで同じく巨石のある鷲ノ山の方を向いている。

藪に覆われているので、鷲ノ山が見えるかどうかはわからないが、信号の中継点としては位置的に問題ない。

ここも古代の通信施設であったことは間違いない。

と、妄想はここぐらいにして、もう一度見直すと、上から二段目の巨石に文字が書いてある。




「・・・部神社」と読める。

蔦が上の文字を隠しているが、神社には違いないようである。

あの説明板の魔物が神社にいたことになる。

しかも、航空神社よりも先に神社があったわけだ。


マムシや虫も恐いので、蔦をかき分ける気にもならず、反対側の遊歩道出口に向かって歩く。

この遊歩道、傾斜も大したことはなく、距離も短く5分足らずの短い道なのだが、上の駐車場に到着した時には、立っていられないほどしんどくなっていた。

まさか、川女郎にやられたのか?

いやいや、熱中症でした。気が付くとTシャツは汗が絞り出せるほど濡れていて、頭からも汗が流れていました。



何神社かが気になったので、帰宅後ネットで検索してみると、蔦のない時に撮られた写真を見つけることができた。

「天照南部神社」と読める。

道理で、岩と岩と隙間に祠を祀っているはずである。

ここも岩戸だったのだ。

川女郎という魔物が、岩の上に立っていたというのは、岩戸開きと何か関係があるのだろうか?
説明書きには何にも書いていない。



より大きな地図で 磐座 を表示  


2013年07月15日

剣山スーパー林道

下界があんまりにも暑いので、雲上の楽園「剣山スーパー林道」へと向かった。





1000メートルを超えるとさすがにすずしい。が、国道193号線からファガスの森を越えて、「とくしまのヘソ」までは10kmの登り。

全身から吹き出す汗で、雨に濡れたのと変わらない状態。

自転車用ウエアを着ているおかげで、綿のシャツのように汗で重くなることはない。

弁当を食っていると、ふくらはぎに虫が止まったような感触。

触ると、つぶれた小さな虫と、赤い点。

げ、ぶよだ。

この時はなんともなかったが、帰ってから急にかゆくなりだし、3cmの円状に腫れ上がっている。

全部で15か所。えらい災難であった。


「ヘソ」からは下りになる。

途中観測基地を通過。




次の峠の辺りで通行止めになっているので、2Kmほど進んでから引き返す。

入り口からここまでで2時間ほどかかった。途中休憩は40分程度、ということは、時速9km強。えらく遅い。


が、「へそ」からの帰り道は延々10kmの下り、らくちんに飛ばせるのだ。



休みなく一気に駆け降りたので、40分。ということは平均15km。

ロードだとアップダウン込みで10kmの距離なら平均27kmなので、えらい違いである。

どっちにしろ、鈍足なのだが・・・。
  


2013年07月14日

ひまわり団地

まんのう町のひまわり団地に行ってきた。






あんぱんまんがやって来た。  


2013年07月13日

避暑地の軍艦

あんまりにも暑いので、荘内半島の先の方、箱崎で泳いでいると、

遠くに艦影。





船体の番号は遠すぎてはっきりは読み取れないが、3518か3516に見える。

この距離でもイージスシステムは見て取れないので、護衛艦であろうと思われたので、帰って調べてみる。

3516は「あさぎり (護衛艦)」でwikipediaによると

「艦籍番号がTV-3516に変更・・・2012年3月14日付けで、護衛艦に再度種別変更を受けた。艦籍番号は護衛艦時代のDD-151に戻った。 現在は護衛艦隊第14護衛隊に所属し、定係港は舞鶴である」

とあるので、違うようだ。艦影自体もマスト位置が全く違う。

で、3518を調べてみると、まさにこれ。

「せとゆき (練習艦)」

「護衛艦隊第12護衛隊に所属し母港は呉であったが、2012年3月14日に練習艦に種別変更された。」

所属も呉なので、間違いないであろうと思われる。

  


2013年05月14日

岡山、熊山遺跡

ゴールデンウイークは毎日仕事をしていたが、急に木曜日に空きができたので、遅めの休暇をとり、有名な熊山遺跡に行ってきた。

この名前、吉備の国の隅にあるから、「すみのやま」の意味で「隅山(くまやま)」と呼んでいたものが、後世になって文字が変わったとか、古代朝鮮語で「クマ」は王を指すからとかいろいろ説があるがよくわかってはないらしい、しかもここには熊はいない。

旧琴南町の中熊という地名も同じような意味が隠されているのかもしれない。誰も知らない地名なので、どうでもいいが。




話を熊山遺跡にもどして、このピラミッド状の謎の石積みは、古墳であるとか、戒壇であるとか、経塚であるとか、いろいろ説があるらしいが、はっきりしたことはわかってないらしい。東西南北に設けられた龕があることと、中央部から文字が書いてある皮の巻物が入った三彩の容器が出たことから、現在では仏塔であると結論付けられている。

中に入っていたものが、奈良前期のものなので、その頃建立されたものであろうとされている。

このピラミッドの下は、もともとは磐座であったといわれているが、その磐座自体は大きな一枚岩が割れたような形になっている。



以前の発掘調査では、もとの磐座を割って、平らにしてこのピラミッドを作ったと分析されているが、西側(裏側)から見ると、どうも磐座の形状に合わせて石を積んでるようにしか見えない。そもそも宗教的施設を作るのに、元の宗教施設を破壊して作ることはないであろうと思う。

瀬戸内各地の大小の比較的有名な寺社は、おおよそが古代の磐座のある場所の付近に建っていて、仏教であろうと神社であろうと、何らかの形で磐座は保存されているのが普通である。

ただ、私の考えでは、磐座になる前は、通信施設もしくはエネルギー供給施設であったはずなので、加工跡があるのであれば、その時代(前文明期)に加工した跡が、石積みの下にあるがゆえに残されてきたとも考えられる。

しかし、一枚岩の上に立つ階段状の四角錘の積石、ギザのピラミッドと同じである。←考えすぎ

各面の向いている方向は、方位磁石上の東西南北より若干西にずれているので、正確な東西南北に向いていると言えます。
これもエジプトのピラミッドと同じ。←今回そこまで正確に測ったわけではないので、推測。




以下は、wikipediaから抜粋。

「基壇の中央には竪穴石室があり、その中に高さ162センチメートルの陶製の五段重ねの筒型容器が納められていた。容器内には三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたと伝えられているが、1937年(昭和12年)に盗掘にあい、現在は行方不明である。なお、筒型容器は奈良県天理市の天理大学に収蔵されている。」


ただ、中央部からみつかった文字の書いてある皮には、いったい何の文字が書かれていたのだろう?

漢字なのか、梵字なのか、神代文字、はたまた遠い異国の文字なのか?

昭和初期に盗掘にあって、その皮の巻物は失われているというが、本当に盗掘なのか?

なにか天皇制に不都合なことでも書かれていたのではないかと勘繰ってしまう。ここはヤマトよりも遥か以前から栄えていた地域なのであるから、可能性も無くはない。

そもそも盗掘前に巻物が見つかっているのだとしたら、だれか読んだ人がいるはずである。泥棒が、「これこれこういうものが入っていました」と報告書を書かない限り、盗掘によって見つかったわけではなかろう。

なら、その時点で、何の目的で巻物を入れていたかわかるはずである。少なくとも何の文字で書かれていたかぐらいはわかりそうなものである。

なのに未だもって完全な結論が出ていないのは、何かを隠しているからとしか思えない。

まあ、そんな邪推はおいといて、仏教伝来以前、この山自体が神域であったことは確かであろうと思われる。

熊山遺跡自体が磐座を利用して、その上に立っており、すぐ近くの宝塔は立石と小さな磐座に寄り添っている。

立石


また、少し離れたところにある熊山神社には、「児島三郎高徳挙兵の地」と記されているが、磐座がある。



展望台から、向かいの山を見ると、送電線の横に丸い巨石が並んでいる。
今も昔も通信、送電施設は同じところに作るのが理にかなっているという証拠であろう。



通信、送エネルギー中継点があるということは、この熊山遺跡の巨大な磐座もその関連施設であったろうと思われる。


ここも広島から続く、縄文時代以前の前文明期に作られた環瀬戸内海文明の遺物であろうと、最近妄想でなく、本気で考え始めている。



おまけ

熊山神社の神門にある珍しい木製の牛と馬。



  


2013年05月12日

祖谷お山公園

ふと思い立ち、祖谷に行ってきた。

なにを思い立ったかというと、かずら橋の奥の林道にある「お山公園」のことである。

「お山公園」とは、私営の公園で、洞窟の中に天国と地獄を大きな彫像?で再現した今でいうテーマパークである。

前回訪れたのは、小学校に上がるかどうかの幼少の頃で、その地獄めぐりを本気で恐がった思い出がある。

一方、その反対側には天国があり、その入り口には地獄めぐりには無かったドアがあり、スナックなどの軒先にかけてある「18歳未満お断り」の札が、幼少期の私の好奇心をかきたてたものであった。

子供の頃、両親がちょっと出かけようというと、何故かかずら橋に行くことが多かったので、お山公園にも通算二回ほど行った記憶がある。

その天国とはいったい何であったのかは、大人になって「秘宝館」というものがあることを知ってからだった。

秘宝館とは、いわば性のテーマパークで、古来より伝わる陽石、陰石、天然木のマラやら割れ目など、世界各国の陰陽信仰にまつわる秘物から、春画、マネキンによる性愛行為の再現等、古代から現代に至るまでの性の歴史を展示してあるちょっとエッチで、真面目?な展示館である。

旅先で、どんどん閉鎖していっているこの昭和の遺物。

早く行っとかないと、閉まっちゃう。

ということで、30数年ぶりに訪れてみた。

んだが、以下写真の通り。

お山公園

閉館しておった。


張り紙には「10月から電気も止まります」とあった。

2年ほど前、道を間違い、お山公園の前を通った時は、受付のおばさんが見えたので、この10月とはその年の10月だったのかもしれない。

去年の10月にしては張り紙が古びていた。


明らかにこれは時代の流れ、しかたない。どこか別の所を探してみよう。
  


2013年04月29日

孫文の名前驚きの真実



中華民国建国の父、孫文。

中国では、孫中山と言うほうが多い。

中国各地にある中山公園は孫文を記念する意味でこの名がつけられている。

中国在住の日本人はよく

「なかやま公園の前のマックで待ち合わせ」

のような使い方をするが、じつはこの日本語での呼び方が意外に正しいらしい

というのも、孫文が日本亡命中に使っていた名前のひとつに、

「中山 樵(なかやま きこり)」

というのがあって、中国の革命家たちが孫文を呼ぶのに「孫中山」と言ったのが、ひろまったらしい。

しかも、日本で日本人と結婚して子供もいたらしい。

大月薫さんというのが、奥さんらしいが子供の名前は不明と、中国サイトでふらふらしている時にみつけたこのネタ、日本のwikiで調べてみると、娘さんの名前も、お孫さんの名前もはっきり出ていた。

しかも、この中山と言う名前、近所の中山さん宅の表札を見て気に入り使っていた、というので、完璧な日本語なのである。

中国人でこの事実を知っている人は少ない。

知らずに「中山公園」とか「偉大なる中山先生」などと言っているのである。

私にとっても、この十年ぐらいで一番驚いた事実であった。

  


2013年04月24日

P200Eフロントサス交換

ベスパサイドカーのハンドリングがいつまでたっても安定しない。

少しでも左手をハンドルから離すと、フロント全体がばたばたと暴れだすのである。

ひどい時は、走行中分解するんじゃないかとおもうほど左右に「いやいや、やめて」と首を振るので、力を抜けない。

長距離走ると、左腕がだるくなります。


カーとバイクの間は、太い鋼管一本で連結されているだけなので、こいつがしなって横揺れが来るのかと、2㎝弱の鉄パイプを曲げて補強したものの、まったく効果なし。





で、サスを硬くすれば、収まるんじゃないかと、いつもの宇賀神商会でイタリア製のサスを買ってみた。

ついでにひび割れたタイヤと、錆錆のホイールも前後交換することに。






上が社外新品。

ヴェスパのフロントサスはアールズショックなので、ねじを外すだけで外れてくれるのだが、フェンダーを外すのに、フォーク全体を抜かなくてはならないので、やっぱり大変。

外してみると、なんとなく自転車的である。




こんなちゃちなフォークで100km/h近く出すんだから、危ないよな。


結果、若干ぶれは止まったものの、両手放しはまだまだ無理そう。

次は、もう一本、カーとの間にパイプをわたしてみよう。

  


2013年04月15日

秘密の山道



最近見つけたダウンヒルのできる山。

見た目よりも急斜面、ブレーキなしでは飛んでいっちゃいます。

どこかは秘密。  


2013年03月26日

庵治御殿山磐座

庵治町、大仙山には磐座、立石、ストーンサークルらしきものが立っている。




ここには正確な方位石があり、東西南北を指している。



ここから海を眺めると、半島の先にさらにつながった小さな半島が見える。

ここへ来る途中の道から、この小さな半島の小山に神社があるのが見えていた。




N氏「あそこの神社行ってみましょう。」

神社マニアの彼は、変わった神社を探して訪ねるのが趣味である。

彼がみつけて来た神社の裏山に登ると磐座があるという事実が数回ある。

彼自身は、磐座探しは興味がないのだが、彼は私にとってはトリュフを探す豚。

行かねばならない。

一度山を降り、小山に近づくと、「セカチュー」のロケ地の看板があちらこちらに。




どうやらこの小山もロケ地になったようだ。

神社に上るとアベックがブランコにいる。後から知ったことだが、映画の中で主人公たちがそのブランコに乗っているシーンがあったらしい。

この皇子神社といい、応神天皇の皇子「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」という人物を祀っている。

このうじのわきいらつこという人、応神天皇亡き後、後の仁徳天皇と皇位を譲り合い、どちらも譲歩して埒があかないので自害してまで譲ったというえらく欲のない人物であったらしい。

その名の通り、御陵は京の宇治にあるらしい。

そんな皇子をどうしてこんなところに祀っているのかは知らないが、映画のロケ地になったのにもうなずけるよい所である。

いろいろ考えながら参っていると、なんとなくおっさん二人組を怪しむアベックの視線。

ここからは早いところ退散したほうがよさそうである。




と、案内板を見ると、この小さな半島の先に松平のお殿様の避暑地があると書いてある。

そもそもこの御殿山という名前もそこから来ているそうだ。

そそくさと遊歩道へ逃げ込む。

しばらく歩くと、崖側に平らな石組。遊歩道を作るため削ったのかもしれないが、コンパスを見ると真西に向いている。




よくよく崖の上を見ると藪の中にも平らな鏡岩らしき大石が石組とともに立っている。遊歩道とは関係ない位置にあるし、下の平らな石にはお供えもしてあったので、昔からあった物であろうと思われる。




真西の海側に鏡岩があるということは、他の方向にもある可能性がある。

少し進むと、頂上展望台への案内図。




説明書きには、なんと頂上に昔から磐座があるというではないか。

迷わず頂上へダッシュするアラフォーのおっさん、それを追いかけるアラサー。

頂上の磐座は想像以上に大きく、真北の海に向かっていた。








西、北と巨石があるのだから、東はどうか。

頂上東側は切り立っており石はなさそうである。

では、南はと、少し下ると藪の中に石組を発見。古墳の玄室のような気もするが、大元は真南に向いた鏡岩だったのだろう。








皇子神社はもともとこの蛭子神社の位置にあったものを現在の位置に移したそうである。






こんな思わぬ発見を導いてくれるトリュフ探しのN氏も今月いっぱいで故郷の島へと帰ってしまう。






これからは、もっと自分の嗅覚を磨いて豚よりも敏感にならなくてはならないと夕暮れの中、決意するおっさんであった。