2013年05月14日
Posted by こち at
2013年05月14日01:29 Comment(0)
岡山、熊山遺跡
ゴールデンウイークは毎日仕事をしていたが、急に木曜日に空きができたので、遅めの休暇をとり、有名な熊山遺跡に行ってきた。
この名前、吉備の国の隅にあるから、「すみのやま」の意味で「隅山(くまやま)」と呼んでいたものが、後世になって文字が変わったとか、古代朝鮮語で「クマ」は王を指すからとかいろいろ説があるがよくわかってはないらしい、しかもここには熊はいない。
旧琴南町の中熊という地名も同じような意味が隠されているのかもしれない。誰も知らない地名なので、どうでもいいが。

話を熊山遺跡にもどして、このピラミッド状の謎の石積みは、古墳であるとか、戒壇であるとか、経塚であるとか、いろいろ説があるらしいが、はっきりしたことはわかってないらしい。東西南北に設けられた龕があることと、中央部から文字が書いてある皮の巻物が入った三彩の容器が出たことから、現在では仏塔であると結論付けられている。
中に入っていたものが、奈良前期のものなので、その頃建立されたものであろうとされている。
このピラミッドの下は、もともとは磐座であったといわれているが、その磐座自体は大きな一枚岩が割れたような形になっている。

以前の発掘調査では、もとの磐座を割って、平らにしてこのピラミッドを作ったと分析されているが、西側(裏側)から見ると、どうも磐座の形状に合わせて石を積んでるようにしか見えない。そもそも宗教的施設を作るのに、元の宗教施設を破壊して作ることはないであろうと思う。
瀬戸内各地の大小の比較的有名な寺社は、おおよそが古代の磐座のある場所の付近に建っていて、仏教であろうと神社であろうと、何らかの形で磐座は保存されているのが普通である。
ただ、私の考えでは、磐座になる前は、通信施設もしくはエネルギー供給施設であったはずなので、加工跡があるのであれば、その時代(前文明期)に加工した跡が、石積みの下にあるがゆえに残されてきたとも考えられる。
しかし、一枚岩の上に立つ階段状の四角錘の積石、ギザのピラミッドと同じである。←考えすぎ
各面の向いている方向は、方位磁石上の東西南北より若干西にずれているので、正確な東西南北に向いていると言えます。
これもエジプトのピラミッドと同じ。←今回そこまで正確に測ったわけではないので、推測。

以下は、wikipediaから抜粋。
「基壇の中央には竪穴石室があり、その中に高さ162センチメートルの陶製の五段重ねの筒型容器が納められていた。容器内には三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたと伝えられているが、1937年(昭和12年)に盗掘にあい、現在は行方不明である。なお、筒型容器は奈良県天理市の天理大学に収蔵されている。」
ただ、中央部からみつかった文字の書いてある皮には、いったい何の文字が書かれていたのだろう?
漢字なのか、梵字なのか、神代文字、はたまた遠い異国の文字なのか?
昭和初期に盗掘にあって、その皮の巻物は失われているというが、本当に盗掘なのか?
なにか天皇制に不都合なことでも書かれていたのではないかと勘繰ってしまう。ここはヤマトよりも遥か以前から栄えていた地域なのであるから、可能性も無くはない。
そもそも盗掘前に巻物が見つかっているのだとしたら、だれか読んだ人がいるはずである。泥棒が、「これこれこういうものが入っていました」と報告書を書かない限り、盗掘によって見つかったわけではなかろう。
なら、その時点で、何の目的で巻物を入れていたかわかるはずである。少なくとも何の文字で書かれていたかぐらいはわかりそうなものである。
なのに未だもって完全な結論が出ていないのは、何かを隠しているからとしか思えない。
まあ、そんな邪推はおいといて、仏教伝来以前、この山自体が神域であったことは確かであろうと思われる。
熊山遺跡自体が磐座を利用して、その上に立っており、すぐ近くの宝塔は立石と小さな磐座に寄り添っている。

また、少し離れたところにある熊山神社には、「児島三郎高徳挙兵の地」と記されているが、磐座がある。

展望台から、向かいの山を見ると、送電線の横に丸い巨石が並んでいる。
今も昔も通信、送電施設は同じところに作るのが理にかなっているという証拠であろう。

通信、送エネルギー中継点があるということは、この熊山遺跡の巨大な磐座もその関連施設であったろうと思われる。
ここも広島から続く、縄文時代以前の前文明期に作られた環瀬戸内海文明の遺物であろうと、最近妄想でなく、本気で考え始めている。
おまけ
熊山神社の神門にある珍しい木製の牛と馬。


この名前、吉備の国の隅にあるから、「すみのやま」の意味で「隅山(くまやま)」と呼んでいたものが、後世になって文字が変わったとか、古代朝鮮語で「クマ」は王を指すからとかいろいろ説があるがよくわかってはないらしい、しかもここには熊はいない。
旧琴南町の中熊という地名も同じような意味が隠されているのかもしれない。誰も知らない地名なので、どうでもいいが。

話を熊山遺跡にもどして、このピラミッド状の謎の石積みは、古墳であるとか、戒壇であるとか、経塚であるとか、いろいろ説があるらしいが、はっきりしたことはわかってないらしい。東西南北に設けられた龕があることと、中央部から文字が書いてある皮の巻物が入った三彩の容器が出たことから、現在では仏塔であると結論付けられている。
中に入っていたものが、奈良前期のものなので、その頃建立されたものであろうとされている。
このピラミッドの下は、もともとは磐座であったといわれているが、その磐座自体は大きな一枚岩が割れたような形になっている。

以前の発掘調査では、もとの磐座を割って、平らにしてこのピラミッドを作ったと分析されているが、西側(裏側)から見ると、どうも磐座の形状に合わせて石を積んでるようにしか見えない。そもそも宗教的施設を作るのに、元の宗教施設を破壊して作ることはないであろうと思う。
瀬戸内各地の大小の比較的有名な寺社は、おおよそが古代の磐座のある場所の付近に建っていて、仏教であろうと神社であろうと、何らかの形で磐座は保存されているのが普通である。
ただ、私の考えでは、磐座になる前は、通信施設もしくはエネルギー供給施設であったはずなので、加工跡があるのであれば、その時代(前文明期)に加工した跡が、石積みの下にあるがゆえに残されてきたとも考えられる。
しかし、一枚岩の上に立つ階段状の四角錘の積石、ギザのピラミッドと同じである。←考えすぎ
各面の向いている方向は、方位磁石上の東西南北より若干西にずれているので、正確な東西南北に向いていると言えます。
これもエジプトのピラミッドと同じ。←今回そこまで正確に測ったわけではないので、推測。

以下は、wikipediaから抜粋。
「基壇の中央には竪穴石室があり、その中に高さ162センチメートルの陶製の五段重ねの筒型容器が納められていた。容器内には三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたと伝えられているが、1937年(昭和12年)に盗掘にあい、現在は行方不明である。なお、筒型容器は奈良県天理市の天理大学に収蔵されている。」
ただ、中央部からみつかった文字の書いてある皮には、いったい何の文字が書かれていたのだろう?
漢字なのか、梵字なのか、神代文字、はたまた遠い異国の文字なのか?
昭和初期に盗掘にあって、その皮の巻物は失われているというが、本当に盗掘なのか?
なにか天皇制に不都合なことでも書かれていたのではないかと勘繰ってしまう。ここはヤマトよりも遥か以前から栄えていた地域なのであるから、可能性も無くはない。
そもそも盗掘前に巻物が見つかっているのだとしたら、だれか読んだ人がいるはずである。泥棒が、「これこれこういうものが入っていました」と報告書を書かない限り、盗掘によって見つかったわけではなかろう。
なら、その時点で、何の目的で巻物を入れていたかわかるはずである。少なくとも何の文字で書かれていたかぐらいはわかりそうなものである。
なのに未だもって完全な結論が出ていないのは、何かを隠しているからとしか思えない。
まあ、そんな邪推はおいといて、仏教伝来以前、この山自体が神域であったことは確かであろうと思われる。
熊山遺跡自体が磐座を利用して、その上に立っており、すぐ近くの宝塔は立石と小さな磐座に寄り添っている。

また、少し離れたところにある熊山神社には、「児島三郎高徳挙兵の地」と記されているが、磐座がある。

展望台から、向かいの山を見ると、送電線の横に丸い巨石が並んでいる。
今も昔も通信、送電施設は同じところに作るのが理にかなっているという証拠であろう。

通信、送エネルギー中継点があるということは、この熊山遺跡の巨大な磐座もその関連施設であったろうと思われる。
ここも広島から続く、縄文時代以前の前文明期に作られた環瀬戸内海文明の遺物であろうと、最近妄想でなく、本気で考え始めている。
おまけ
熊山神社の神門にある珍しい木製の牛と馬。

