2014年02月12日
Posted by こち at
2014年02月12日01:41 Comment(0)
倉敷阿智神社の磐座
珍しく、有名な倉敷美観地区へ足を運んできました。

といっても、美観地区だけが目的な訳はなく、メインは磐座です。
で、場所は意外なことに美観地区にくっついた鶴形山という小山の頂上。
普通の観光地にある磐座は、私にとっては初めての経験。
市役所の駐車場に車を停めて、のんびり美観地区へ潜入していきます。
よく写真で紹介されているお堀のあるメインの通りから、人力車の客待ちしている橋のたもとより東の路地へ入り、左に行って右へ曲がると、石段が見えてきます。

ここが阿智神社の参道。
石段を登りきるとすぐ本宮、かなり低い山です。
こんなところに本当に磐座があるのか?
疑問に思いつつ本宮にお参りします。
本宮は至ってふつう。
どこに磐座があるのかと、ぐるりと右手に回ると、裏手に菅原社が見えます。
「東風中国語サービス」といううちの社名は、中国やマージャンでよく使われている「トンプー」という単語とは全く関係なく、学問の神様道真公の有名な「こちふかばにおいおこせしうめの・・・」という歌からいただいておりますので、必ず菅原社にはお参りします。
その菅原社の真横に邪魔そうに立っている立石を発見!!

その手前の天照大神を祭っているところにも立石。

この立石から横に岩境が続きます。
さらに本宮左手に回ると、この山の名前にもなっている鶴と亀の磐座があります。

が、磐座というよりは庭石。
よくよく案内板を読んでみると

この磐座も岩境も神社もすべて応神天皇の時代に朝鮮半島から阿智使主が帰化した際にこの国に同化するため建てたとのこと。

陰陽思想を取り入れたニュータイプの磐座とのことで、創建された時期がはっきりわかっている珍しい磐座。
道理で、こんな100Mもなさそうな丘のような山に立っており、しかも庭石然とした佇まいな訳です。
私の自論、「磐座は超古代250m海進期の通信施設の遺物」説に反しているのは当然のことだったのです。
逆に言うと、海抜の低い位置の磐座は最近の物という証拠の一つになります。
さらに鶴形山公園側(山の東斜面)にも岩境か磐座かわからない石組みがあります。

ストーンサークルの石の間に記念碑を建てたようです。

車道をずっと下って行くと、山裾にもう一つ磐座と呼ばれている庭石があります。


ここは、書物に作られたいきさつがあるという、私の期待していた遺跡ではなかったものの、その時代に磐座や岩境がはっきりした形で信仰の対象になっていたということを証明する貴重な遺跡であると言えます。
ま、そもそも応神天皇っていう人が、実在したかどうかも怪しいので、歴史時代と言っていいのかどうかはわかりませんが。
大きな地図で見る
といっても、美観地区だけが目的な訳はなく、メインは磐座です。
で、場所は意外なことに美観地区にくっついた鶴形山という小山の頂上。
普通の観光地にある磐座は、私にとっては初めての経験。
市役所の駐車場に車を停めて、のんびり美観地区へ潜入していきます。
よく写真で紹介されているお堀のあるメインの通りから、人力車の客待ちしている橋のたもとより東の路地へ入り、左に行って右へ曲がると、石段が見えてきます。
ここが阿智神社の参道。
石段を登りきるとすぐ本宮、かなり低い山です。
こんなところに本当に磐座があるのか?
疑問に思いつつ本宮にお参りします。
本宮は至ってふつう。
どこに磐座があるのかと、ぐるりと右手に回ると、裏手に菅原社が見えます。
「東風中国語サービス」といううちの社名は、中国やマージャンでよく使われている「トンプー」という単語とは全く関係なく、学問の神様道真公の有名な「こちふかばにおいおこせしうめの・・・」という歌からいただいておりますので、必ず菅原社にはお参りします。
その菅原社の真横に邪魔そうに立っている立石を発見!!
その手前の天照大神を祭っているところにも立石。
この立石から横に岩境が続きます。
さらに本宮左手に回ると、この山の名前にもなっている鶴と亀の磐座があります。
が、磐座というよりは庭石。
よくよく案内板を読んでみると
この磐座も岩境も神社もすべて応神天皇の時代に朝鮮半島から阿智使主が帰化した際にこの国に同化するため建てたとのこと。
陰陽思想を取り入れたニュータイプの磐座とのことで、創建された時期がはっきりわかっている珍しい磐座。
道理で、こんな100Mもなさそうな丘のような山に立っており、しかも庭石然とした佇まいな訳です。
私の自論、「磐座は超古代250m海進期の通信施設の遺物」説に反しているのは当然のことだったのです。
逆に言うと、海抜の低い位置の磐座は最近の物という証拠の一つになります。
さらに鶴形山公園側(山の東斜面)にも岩境か磐座かわからない石組みがあります。
ストーンサークルの石の間に記念碑を建てたようです。
車道をずっと下って行くと、山裾にもう一つ磐座と呼ばれている庭石があります。
ここは、書物に作られたいきさつがあるという、私の期待していた遺跡ではなかったものの、その時代に磐座や岩境がはっきりした形で信仰の対象になっていたということを証明する貴重な遺跡であると言えます。
ま、そもそも応神天皇っていう人が、実在したかどうかも怪しいので、歴史時代と言っていいのかどうかはわかりませんが。
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